夫婦、家族〜離婚と生活、人生について考える

夫婦って何だろう、結婚って何だろう、幸せに生きたい〜そんなあなたへの言葉

夫が嘘をつく・・・そこには修復の余地があるということ

夫の不倫を疑う、どうも怪しいから確信へ・・絶対、間違いない、次は証拠を・・と思っているとき、そんなときでさえ平気で嘘をつく夫

 

この嘘に、本当に嫌気が差すこともあるでしょう、わかりきってる嘘をつく、或いは苦労してアリバイ工作してても妻にはわかる嘘。嘘とわかればわかるほど、また嫌悪感が増すのも妻の辛さです。

 

でも、どうして夫は嘘をつくのでしょう。不倫相手が好きなら、好きと言えばいいのに!そんなにこの家が嫌なら出て行けばいいのに!と感情は高ぶります。(でも、出て行くと言われるとまた悔しくて腹が立ちますが・・)

 

 

夫として妻に嘘をつくには、理由があります。

もちろん、隠し事である不倫だから嘘をつくのは当たり前

 

じゃあどうして隠したくなるのか・・・

妻と不倫女性と両方失いたくない

バレるまでは、不倫女性との時間を楽しみたい

 

・・・結局、最終的には妻のところに戻りたい、戻るところは妻のところ、という心理があるのでしょう。

隠す、嘘をつくということは、バレない限り続けたい不倫、ということですが、それは裏を返せば、バレたら終わりの関係であるということ。

 

夫が隠し続けている限り、ある意味、夫婦として戻るべき場所はここであるという意識が、気づいているかいないかは別問題として、あるということなのです。

 

でも、それはもう一面ではそれだけ妻に甘えている ということでもあるのです。だからこそ妻は腹が立ちます。どれだけ私に頼って、どこまで自分勝手に甘えているわけ!?と・・・

 

嘘をつく別の理由には、バレた時の責任をとるのが怖い、とてもとれない、という心理もあるでしょう。ここでも甘えが感じられますが、それでもその責任の重大さというものを感じているのも事実だということです。

 

嘘をつくということには、夫として責任をとる怖さや、妻に甘えるという幼児性を伴っていますが、それでも嘘をついてでも現実の世界、生活は妻と夫婦として生きていく、と思っているからこそなのではないでしょうか。

 

この幼児性やズルさに、怒りや腹立ちを妻は感じます。

 

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 嘘をつくということから垣間見える夫の幼児性とともに、最終的な居場所を妻に求めているのも感じられます。だからこそ、修復の余地は残されているのです。

 

ただ、その修復は謝罪して家庭に戻るだけでは、修復とはいえない、だからこそ、ここで夫婦としてお互いの意識、妻の存在、夫の存在について、もう一度再構築して行く必要があるのでしょう。

 

 そのためのお手伝いを私たちカウンセラーができるのであればうれしいことだと思っております。

離婚が決断できないわけ・・・

夫婦問題で悩み、最終的な決断としての離婚

そうする方がいい、とまわりは言うし自分でもそうなのかな〜と思う。でも、決断できない・・・

生活の心配をしているから?

世間体を気にしているから?

せっかく築いた家庭を失いたくないから?

子どものことを考えて経済的にも世間的にも離婚ができない・・

 

いろんな思いが自分を責めてくる

夫の不倫で傷つき、そこで自分が女性として、妻としてなんてダメなんだろうと自己否定する日々、こんなふうに自分を責めてしまう日々。そして、今度は離婚をできない自分をまた責めてしまう。

 

頭ではわかっている、条件的にも離婚した方がいい、そうわかっていても決断できないのはどうしてでしょう

 

もちろん、経済的なこと世間体・子どものことという面もあるでしょう、では、経済的な安心があれば離婚の決断ができるのでしょうか・・・

今の気持ちのままじゃきっと、不安な材料が全て不安でなくなったとしても変わらないでしょう。

 

離婚は、前を向いて決断するのと同じだけ、自分の過去にも決断を求められます。夫と別れるということはそれまで生きて来た自分とも別れることになります。

夫と過ごした日々が懐かしい、あんな日々もあった、という切ない想いからだけではない 夫と生きると決めた自分、この人と結婚しようと決めた自分、そんな自分を一旦否定することになるから、だから決断仕切れないのです。過去の自分を否定するなんて、できないですよね。

 

でもね、過去の自分と別れるということは決して否定することではないんです。

 

人生には、どうしようもないことや その選択しかなかったこと、選択せざるを得なかったことなどが多くあります。そんな人生の中で自分の気持ちとどう折り合いをつけて生きていくのか、が大切なのでしょう。

 

この離婚という選択も、これからどう生きるのか 夫婦のお互いにとってよりよき人生を歩むための一歩だと思えるとき、そして自分の過去の歩んで来た人生を否定することにはつながらないと思えた時に決断できるのかもしれません。

そして、不思議なことに、夫婦としてこれからどう生きるのかということと、今までの人生への否定がなくなったとき、というのは修復の第一歩、やっぱり夫と生きて行きたいという思いが生まれてくるときでもあるのです。

 

離婚・修復、どちらの道を選んでも前を向いた時が夫婦再生のスタートになるのです。

 

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自分自身の生き方が見えて来た時が、私にとって夫婦って何なのか、結婚生活って何なのかということがわかるのかもしれません。

未成熟な男性たちと夫婦問題

「未成熟な男性たち」男性とは限らないですが、未成熟ということは単に大人になれているか、大人の考え方ができるかというレベルのことではなく、自分のアイデンティティーをどう持っているか、ということになるのでしょう

 

女性は、就職・結婚・出産など人生のステージや役割が変わるとともに(変わるというよりも、増える、追加されていくという方が正しいかもしれませんね)どんどん成長して、成熟した人間性が育っていくものですが、男性はどうしてもその人間性の成熟する機会が活かしきれない場合が多いのです。

 

だからこそ、人との関わり方や人生観において、どうしても未成熟な精神性を持っていることが多く、それが成熟していく妻との意識のズレになってしまうことになりがちです。

 

そのズレから、妻は夫に対して幻滅を感じたり寂しさを感じたりします。また同時に夫もなにかわからないけど妻との埋められない距離感を感じたり、そこから逃げるように不倫に走ったり、見てみないふりをする生活をしてしまったりするのでしょう。

 

男性の未成熟さは、どこから来ているのか

 

年齢だけは重ねるけれども、いつまでたっても息子のままでいることの多さもあります。特に親元から離れず生活していた男性に起きがちなことですね。(親元から離れていても、親の関わり方によっては同じことである場合も・・・)

どちらにしても、親、特に母親との関わり方が影響しているようにも感じます。母親が何でもしてしまう、行動だけでなく気持ちまで先回りして代弁してしまう、そんな暮らしを積み重ねて来た男性は、自分の気持ちを自分の言葉で語ることができません。

 

また、勉強を一生懸命やってきた、スポーツをとても頑張って来たという優等生タイプにもありがちなことです。

勉強さえしていればよい、という環境

勉強ができることが人としての成熟の証のような環境

スポーツもしかり、頑張っていればそれでいい環境

それでいい環境というと同時に、その頑張りを求められる環境でもあったともいえるでしょう。

 

そんな男性が、成人し結婚した時にどんな問題が生まれてくるのか・・・

 

今までは、勉強やスポーツなど自分に与えられたことさえしていれば、それでよかったのです。そして、そこで十分に褒められることで自己充実感も感じ生きてこれました。

しかし、結婚すると、今度は仕事さえしていればいいわけではなlくなります。自分のことだけしていればよかった独身時代とは大きく変わってくるのです。

 

自分のことだけ考えていればよかった生活から、そのまま結婚しても同じ感覚でいると「俺は仕事をしているんだぞ」となりますし、妻に求めるものも多くなります。そして妻からは、「あなたは自分のことだけ・・」という言葉をかけられてしまう、その結果なぜだかわからないけど、夫婦の気持ちのズレを呼ぶのです。

また、今までは頑張って褒められて来たことが「あなたは好きなことしかしないのね」「仕事だけなのね」と同じ行動をしていても、今までのようにはいかなくなってきます。

 

 

自分のペースで生活し、自分の気持ちも代弁してもらうことが多く、自分で語ることもない、そんな夫に妻はどう接するのか。

 

 

一面では、もっと頼りたいと思いながらも、夫のペースを守ることに協力し、夫の気持ちを代弁し、ひとりで家庭を切り盛りしていく・・・気がつくと、母親のような役割を自らやっていたり、求められていたりもします。

女性の母親化が男性を幼児化させてしまうという現実ですね。

 

 

未成熟さとは幼児性ともいえるでしょう。

なんで自分のことをわかってくれないのか、という自分を認めてほしい欲求、そして欲することと与えることのバランスの悪さ、(欲求が強いあまりに与えることが少ない、できない)自分が・・という自分の思いの強さから、妻の思っていること、考えていることへの想像力の乏しさ、などになります。

 

人としての成熟とは、どれだけ人の気持ちに敏感に感じ取ることができるのか、ということにもつながっているように思います。

それが社会的な人間性とは一致しないことも多いでしょう。

外の世界では、人から頼られる存在であっても最終的なところでは甘えが出てしまう。

だから、不倫相手にはカッコイイ言葉が出ているのに、妻には自分が甘えてしまって暴言を吐いたり、逆ギレをしたり、まるで違う態度になってしまうこともあるものです。

 

甘えられるということは、ある意味とても大切なこと 安心感というものに支えられているものですが、こと夫婦関係で問題が生じた時には この甘えがある関係性が問題をよりややこしくしているようです。

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結婚生活とともにはじまる、社会的役割と責任

結婚〜それは、愛する人と一緒に人生を歩んでいくこと、そんな思いを持ち、そして大好きな人との暮らしを夢見て結婚生活がはじまります。

 

「さよなら、またね」を言わなくてもいい生活、その言葉の代わりが「おはよう」「おやすみ」となる。恋愛の延長、恋愛の最終形、到達地点が結婚のようにイメージして結婚生活を思い描きます。

そして、はじまる二人の暮らし

それが、結婚という枠の中ではじまった二人の生活は、二人だけのものではないという現実がはじまります。

 

家庭という小さな社会と外の世界の大きな社会とをつなげること。それが夫、妻という立場で役割が与えられるのです。そして、義両親や親戚との付き合いからそれぞれの家庭の役割もはじまります。そして、子供が生まれて家族が増えて、夫・妻という役割から父親・母親という役割が増えていき・・・それは、別の意味では幸せが大きく育ってきたことではあるのですが、それと同じだけ枠割と責任も伴う世界も大きくなってきたということになるのです。

 

恋人としてつきあってきた頃は、パーソナルな世界だけでよかったことが、夫婦となってからはソーシャルな世界がはじまります。

パーソナルな世界は、好き・嫌いという感情だけで人生の選択ができました。もう嫌いになったから別れる、と言えました。でも、ソーシャルな世界での生き方は、その社会での立場や、つながり、と与えられた立場での責任というものが常についてまわるのです。

 

つまり結婚・夫婦とはそういうものなのです。

 

不倫関係は、パーソナルな世界にいます。役割もなければ責任も伴わない・・・だから、自由でかつ好きだという感情を全面的に感じながら生きていくことが可能なのです。だから、いつまでも輝いて見えたりするのです。

いっぽう、結婚生活は時間の経過とともにソーシャルな世界がどんどん大きくなるわけで、つまりはそれは面倒なこととも言えることが山盛りです。ソーシャルな世界のことにふれていると感情の行き来がなくなってしまう、ということも起きてしまいます。

感情の行き来がない、ということはお互い何を感じているのかということが重要視されなくなる日々になります。(ここで、あったはずの愛情がどこかに消えてしまったように感じます)

そして、このソーシャルな世界には与えられた役割の責任が伴うのです。

 

夫としての責任、妻としての責任、父親・母親としての責任、親に対しての子としての責任まで・・・結婚って、そういうものなんですよね。この責任も重くのしかかってきます。

だからこそ、簡単に別れられないのです。

 

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責任を通してみる夫の姿に、新しい愛情を感じる人から 逆に今までとは違う感情を感じて、どうしようも処理しきれない複雑な感情を抱える妻もいます。

(不倫、離婚を通して感じる場合や、それまでの生き方で感じる場合など様々です)

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結婚生活からはじまる社会的役割・責任を通して お互いの人としての成長を、魅力として感じ合え そして愛情の形が変わりながらも、お互いに大切な存在として認めあえる、そんな夫婦でいられたらいいのでしょうね。

 

たとえ不倫問題があったとしても、そこから夫婦として生き方を見つめ合い、こんなふうに生きていくことができればそれが修復であり、夫婦再生になるのでしょう。

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いつから謝らなくなったんだろう、夫のこぼしたひと言

いつから謝らなくなったんだろう、もしかしたら、いつから謝れなくなったんだろう、かもしれないですが・・

 

ある既婚男性からのお話です

 

幸せになるために結婚したのに、なんだったんだろう・・

特別に大きな問題が起きているわけではないんです でも、妻との関係にスキマ風が吹いています。

 

別れるとか、そんなでもないです。

別れることは現実的に考えられない、それゆえこの小さな距離感、気持ちのズレが自分の心の中に重くのしかかります。

 

どうしても気になるのが、こんな小さなことでと笑われそうですが、と続けられます。

 

いつからかな・・・妻が謝らなくなったんです。

昔は、「ごめんなさい」という言葉があったけど、今はその代わりに「私だって、忙しかったのよ」と出てくるのは必ず「私だって」からはじまるのです。

 

最初は、「なんだよ!」と思ってたのが、そのうちもういいや、と諦めになってしまって、怒りもわかない分 なんとも言えない虚しさで最近はいっぱいなんです。

 

こんな小さな気持ちのズレ、もしかしたら妻は気持ちがズレているとは気づかずにいるかも知れません。

 

今回は、夫側からのお話でしたが、立場が入れ替わっても同じでしょう。

 

 

結婚生活においてお互いの気持ちを尊重しながら過ごしていくことが必要な場面で、パートナーが私のことしか見えてないと、こんなズレが生まれてくるのです。

 

私を大切に生きることがとても大事なことなのですが、それと同じだけパートナーの気持ちを汲むことも大切なのです。

気持ちを汲んでもらえないパートナーは、いつも自分の気持ちを抑えこんでしまいます。そして、言葉を飲み込んでしまう方が自分の中に抑えこんだ我慢する気持ちをどんどん溜め込んでいくのです。

 

日々の小さな積み重ねが、どんどん大きな地雷となってしまう。

「私だって」と言う方も確かに精一杯の日々を暮らしている、どうしてこうなってしまうのでしょう。

 

謝らなくなったのか、謝れなくなったのか・・・謝るという表面的な出来事ではありますが、その奥深さに悲しみもたくさん感じてしまいます。小さな幸せの積み重ねが大きな幸せにつながるのと同じように、小さな不満は、のちの大きな不満へとつながっていくのです。

 

幸せになるために結婚するのに、どうしてこうなるのか・・・

だからこそ、結婚生活とは、幸せとは、一生かけて人生を学ぶことそのものなのかも知れないですね。

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